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地名妄想「近露」 [地名妄想]

地名妄想シリーズ№2「近露」

Attention!
このシリーズはあくまで私の独りよがりの理由によって
地名の由来を妄想するものです。
決してまともにとって素直に信じたりせず、
ああ、こういう考え方もあるのか、ふーん。くらいにとどめていただけたら幸いです。

 

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田辺市旧中辺路町近露 「牛馬童子」 盗難事件に巻き込まれる前の写真です!

 

地名妄想シリーズ№2は有田の2つめの妄想説と思わせといて、別の地名です(^^ゞ

近露(ちかつゆ)は、田辺市旧中辺路町にある地名で、熊野古道中辺路の中でも人気の牛馬童子だとか、とがの木茶屋などと近く、開けた盆地上の土地であるため、熊野古道めぐりの拠点として、はたまた新宮方面へ向かう車の休憩スポットとして賑わいを見せている、そういう所です。

近露の地名由来については、熊野古道関係の書籍等によく掲載されているのが、花山院が牛馬童子に近い箸折峠という所で、食事をとるのに箸がないため、仕方なくそこに生えていた萱を折り取って箸の代わりとしたら、萱の赤い部分に露が着いているのを見て、「血か?露か?」といった・・・それからこの地は「ちかつゆか」 ・・・「ちかつゆ」・・・「近露」となった。という話です。

もちろん、これはだじゃれ、言葉遊びのレベルの話で、真実ではないと思うが、割と印象的な話のせいか、和歌山県内の地名由来話の中でもトップクラスに有名な話となっています。

続風土記には、この地の端近に「つい(水を引く堰溝。樋と同義)」があったので、「ちかつい」と呼ばれるようになった。という説が掲載されている。が、僕はこの説は間違っていると思っています。

言葉は時代が下るに従い、大概言いやすい方向へ変遷するものです。

「おかゆさん」→「おかいさん」のように、まず「ちかつゆ」があって「ちかつい」はそのあとに使われるようになったと思ってます。

「近つ飛鳥」「近つ淡海」という言葉があります。「近つ」は「近い方の」の古い言い回しで、僕は「近露」は「近つ”ゆ”」つまり「近い方の”ゆ”」 という意味なんじゃないかと思ってます。

で、その”ゆ”なんですが、近露に温泉でもあれば、都から近い方の”湯”で間違いないと思うんですが、それらしき温泉は見当たらない。(ちかつゆ温泉というのがあり、泉質も良いようだが、これは古来からの温泉ではない。)

ところで、和歌山には「ゆや」「いや」という地名が多い。「ゆかわ」というのも多い。「いや」はおそらく「ゆや」が変化したものだろう。昨年の台風12号で土砂ダムができ、大きな被害を受けた「田辺市(旧大塔村)熊野」も「いや」とか「ゆや」と読みます。

全国に見られる「熊野神社」ですが、これを「ゆやじんじゃ」と読んだりします。熊野は、神々の隠る地、鬱蒼とした森に囲まれた地、奥まった秘境の地・・・と 色々と説はありますが、大体似たような意味となっています。そんな「くまの」と、「ゆや」は一緒の意味を持つ言葉なのではないか?と思うんです。

大体「ゆや」とか「いや」と言う地名を持つ所は山に囲まれた奥まった所が多いです。
(熊野神社があるので「ゆや」という地名になった所も多いですが。)

そして、「ゆかわ」と言う地名を持つ所も山に囲まれた奥まった所が多いです。
(本当に温泉が湧く所もありますが。)

そこから想像するに、「ゆ」と言う言葉に奥まったとか、囲まれたとか、そういう意味があるんじゃないかと思うんです。

近露も、開けてはいますが、四方を山に囲まれた小盆地です。

つまり、「近露」は「近い方の”奥まった所”」なのではないかと思うのです。

いや、もっと言えば「近つ熊野」なのではないかと思うのです。

今は上富田あたりを「口熊野」と言ったりしますが、太古の昔は「近露」が熊野の玄関口だったのではないか?

 

これが僕の妄想説ですが、「近つ”湯”」説も実は捨てきれないでいます。

というのも、熊野の地は大昔活発な火山活動があったと言われ、火山がなくなった現在でも熊野には温泉が多いからです。

近露という地名が生まれた頃には、近露には温泉があったのではないか???という仮説に対して、100%ありえない・・・と断定できないのです。

誰か地質学に詳しい方、近露を調査してくれないかなあ・・・

 

 


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地名妄想「有田」 [地名妄想]

地名妄想シリーズ№1「有田」

Attention!
このシリーズはあくまで私の独りよがりの理由によって
地名の由来を妄想するものです。
決してまともにとって素直に信じたりせず、
ああ、こういう考え方もあるのか、ふーん。くらいにとどめていただけたら幸いです。

 

「有田(ありだ)」は、和歌山県中部を流れる有田川流域一帯を指す地名で、郡名になっています。

この「有田」はその昔「安諦(あで)」と呼ばれていました。

ところが、平城天皇の名である「安殿」に似ているので「ありだ(当時は在田と書くことが多かった)」に変えられたそうだ。

 

安諦も含めて、有田という地名の由来に、「荒れた川」からきたという説をよく見るが、これは間違いだと思っている。

仮にそうだとしたら、近隣の紀の川市旧桃山町の地名「安楽川(あらかわ)」のように地名に川がついていないとおかしい。

「ここの土地は川がよく氾濫するから、荒れた川、「あれかわ」、略して「あれ」にしよう・・・・」この流れおかしいですよね。

地名なら「あれかわ」とか「あらかわ」ってつけますよね。で、文献には「安諦川」という地名は出てこない。

ここはやはり「あで」という地名が先にあって、川の名も「あでかわ」と呼ばれたが、

平城天皇の名前とかぶって以来、別の地名「ありだ」を代わりに郡の名前にし、川の名前も「ありだがわ」となった。

これが自然な流れだと思いますが、どうでしょう?

 

その「安諦」の由来ですが、日本書紀持統天皇3年に「紀伊国阿提郡」と出てくるので、

飛鳥時代にはすでに「あで」という地名があったと言うことです。

平安中期の和名抄に出てくる在田郡5郷(すでに"あで"から"ありだ"に変わっている)

のうちに、英多郷(あがたのごう・あたのごう)があるが、これが「ありだ」 「あで」の元となる地名かもしれない。

 

で、万葉集に「足代過而 絲鹿乃山之 櫻花 不散在南 還来万代(足代過ぎて糸鹿の山の桜花 散らずあらなむ帰りくるまで)」

という歌があり、「糸鹿」は有田市糸我町とすると、「足代(あて)」の地は、

糸我から少しこの万葉歌の作者の家に近い方にある地名と言えます。

普通に考えると、作者の家がどこであろうと、熊野古道を南下し、

熊野三山等紀伊半島の南部に向かっていたと考えるのが自然だと思います。

なにより、これが逆だとすると足代の地は、湯浅町吉川あたりと言うことになるのですが、

この辺は有田川いや、足代川(あてがわ)を感じることのない土地なので、吉川=足代は考えにくい。

東西方向というのも、西側があまりに海に近いため、桜よ散らないでおくれ・・・という言葉に違和感を覚える。

東側へ向かったとすると、作者の家と糸我の地があまりに近く、糸我の桜を見てわざわざ歌をよむかという疑問が生じるし、

西側へ向かったとすると、ゴール地点があまりに近く、割と楽に桜が散る前に帰れそうであるし、

ここはやはり、足代の地は、現在の有田市宮原町あたりと見なすのが正解でしょう。

そうなると、前述の「英多郷」も宮原町周辺ではないかと思ってます。

 

あて=宮原町として、何故、”あて”と呼ばれるようになったか。ですが、

熊野古道がメインストリートだった頃は有田郡の玄関だった宮原の地に

初めてたどり着いた人はおそらく、こぢんまりとした印象を持ったことでしょう。

着いてすぐに川が横切っており、そして川の先に山が目前に迫っている。

近隣の名草郡だとか、日高郡よりも明らかにこぢんまりとしている。

昔は行政の区割りは、大きい順に 国>郡>県 という順番だったから、

小さい郡、つまり、県郡(あがたぐん)と暫定的に呼ばれるようになり、

その玄関口である宮原が「英多郷(あがたのごう)」と呼ばれるようになったのではないか?と思うのです。

あがたのごうが「英多郷」と書かれるようになり、「あた」と呼ばれ、更には「あて」、「あで」と変遷していったのではないか?

そう、「奥」を「おき」と読むように、「辻堂」を「ついど」と読むように。

英多郷から、様々な読み方が派生していき、最終「あで」で落ち着いたのだが、

平城天皇の件で地名変更を迫られたとき、派生した英多郷の読み方の中から「ありだ」が選ばれたのではないか?

 

これが、私の「有田」の地名由来の妄想説1です。

 

・・・って、妄想説2もあるんかいっ!

 

 


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